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2012/10/10

年齢とモテの変化

人は年齢とともに否応なく変化しています。本人の気づかないところで価値観や判断基準も変わっています。

あなたが変わっていないと言い切るなら自分の観察や人の観察が少なかったからでしょう。

少年少女の無垢な愛
学生の純粋さと欲求の狭間
決めつけてしまった新社会人
親の愛
やり直しの親子
報酬を求めない愛

少年少女の無垢な愛
小学生でも恋愛はする。大人からすれば微笑ましいだけかもしれないが本人達はいたって真剣だ。そして愛し合えば結婚という結論だからすぐに結婚の約束もする。ただし最近はインターネットが携帯に広がり、その携帯を小学生も手にするのだから知識や求めるものまでかわっていく。そこに性的な要素が入っているにも関わらずどうも親や大人はまだ早いとか言っておけばいいらしい。身勝手で恐ろしい判断だ。今の親はまだ純粋なモバイルネット世代ではないので認識が甘いこともあるが、知らないならしばらく知らないままでいいがすでに知っているならしっかり教えてしまったほうがいい。

本筋から外れたが子供のころは恋愛に罪悪感も不潔感もない。ただただ好き=恋愛なのだからどんな年の差も障壁も構わない。



学生の純粋さと欲求の狭間
やがて中高生になるとSEXを知り付き合いを知る。こうなると結婚という前にSEXが結論になり触れ合い面積も多いので夢中になる。実際に夢中になってしまうと愛なんてのは霞んで欲求に負けてしまう。それを本人は認識しないので表面は純粋なのに求めるものが業深くなる。このギャップに年上の落ち着きを求めたりすることになる。

決めつけてしまった新社会人
そんな経験から社会にでると責任感や一人前である主張から考えをストップし意見の表現が頑固になる。人は経験からしか判断できない。そのためそれぞれの経験をおおっぴらに発表するように自分の見識と立場を論じ踊る。
語るに落ちるという表現があるが観察されると語らなくても経験は見透かされる。経験が少ない事はどうでもいいがそれ以外を想定し考慮し経験を補うのがいい。

親の愛
社会で安定すれば結婚や親になる人もでてくる。結婚は本来恋愛の延長になく別に考えるべきだが心情的にはそうもいってられない。なら結婚に必要な愛はなにか、包む愛や許容する愛と言えるだろうか。相手を四六時中そばに置きながら自分を殺さず相手を殺さずに生きていく。難しいのかもしれないがそれを可能にするのが経験だろう。

そして親となると与え続ける事になる貰えるものは大きいが、見えず確認できず不安が走り出せばあっという間に関係がおかしくなる。しゃべらぬ赤ん坊、泣きじゃくる幼児、否定する少年少女。大人とは与える側にまわること。大人とはよりよい自分に変わるチャンス。

やり直しの親子
親になるかならぬがに関わらず親子の関係は再構築を試みる。それはトラウマからの回復やなんかも含まれるものの日本ではカウンセリングはまだまだでそれ以外のものが殆どだと推察される。恋人やパートナーに父性母性をもとめたりするのがその中身だ。それは悪い事ではないがそうと気づいたときに目指していた愛の形とは違うことに耐えきれず破断することがおおい。しかしパートナーに父性母性を求める事は自然で、そのことで愛し方を確かめ学び与え方を学ぶのでそこまでをしっかりと歩んだ上で更にそのパートナーとの愛を与え合いへ昇華すればいいだろう。


報酬を求めない愛
悟りを開かずとも愛は到達すべき場所に到達する。もしかすると死ぬ間際かもしれないがそれは見返りを求めないものに近づく。しかし人は結論を急ぎ与える喜びを知らず与えられる事を求める。愛の究極は悟りにも近い。そんなものにおいそれと触れられるような勘違いは強欲とも言える。言葉にも行動にもお互いの歩みから滲むものを砂漠のオアシスのように大切にして行かなければいけない。愛は蛇口のついた簡易なものではなく垂れ流しの小さい小さい湧き水だ。たどり着いた場所も道のりもそれ以前のお互いも大切に感じる事が最後の愛だ。

もちろん私は大それた場所にはいないが、望みは与え合いですらない与え続ける愛である。

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